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インタビュー:by @jazz 吉川明子
とにかく今は、自分の音源をどんどん作っていきたいですね。もともとニューヨークのスタジオも、自分の音楽を作るために始めたんだけど、結局自分の音源製作ができなくなってしまったし(笑)。今は田舎のスタジオで、自分の音楽作りに没頭しています。 (増尾好秋)
―ギターを始めたきっかけ― ●ご家族にミュージシャンが多い増尾さんですが、幼少期はどんな風に音楽に関わってきたのか、また、ギターを始めたきっかけも教えてください。 ピアニストの父は、もともと立川や厚木のエアベースでジャズをやっていました。そういうところでレコードを手にいれ、家で聴いていたんです。だから、僕にとってジャズは、小さいころから当たり前に家に流れている音楽でした。 幼少期は、これという楽器はしませんでしたが、ナット・キング・コールを真似して歌ったり、家にあるピアノで遊んだりはしていました。 中学生になって、伯母の家に遊びに行ったときに、たまたまギターがあったんです。いじってみたら面白くてそれをもらってきました。ギターはそこから自己流ではじめました。 ●中学生でギターを始め、大学に入る頃には周囲が騒然とするほどうまくなっていたそうですが、その間、どんな練習をしたのですか。 僕が中学生くらいになった頃、お父さんがステレオを買ってきたんです。当時はステレオなんてなかった時代。学校から帰ってきたら、とにかくステレオの前に座ってギターを弾いて遊んでいましたね。そのうちにお父さんがジャズギターのレコードを買ってきてくれて、レコードの真似をするようになりました。 そんな時期に、ジャズの本を立ち読みしていたら、ブルースっていう12小節の曲の形式があることを知りました。どんなものだろうとそのコードを頭で覚えて家に帰って弾いてみたら、既に知っている曲がたくさんあることに気づいたりして(笑)。そんな風にして、だんだんと音楽のことも自然に勉強していきました。 だから、ただ面白いからやっていただけで、練習という練習はしていません。僕の場合はレコードを聴いて真似をするという感じでしたね。スケール練習なんて知りませんでした(笑)。 ●当時、どんなミュージシャンに影響を受けましたか。 最初に聴いていたのは、うちで流れていたレコード。ピアニストのレコードが中心でした。僕が最初に買ってもらったジャズギターのレコードは、バニー・ケッセルの「ホール・ウィナーズ3」というアルバム。当時人気のギタリストで、僕もいろんな曲をコピーしました。 そのうちにウェス・モンゴメリーっていうギタリストがいるっていうことを、スイングジャーナルで知りました。そのレコードをお父さんに頼み込んで買ってもらった。だけど買ってもらったレコードは、実はあまり気に入らなかったんです。だから僕は、スウィングジャーナルに載っていた「インクレディブル・ジャズギター・ウェス・モンゴメリー」っていうアルバムにレコード屋さんにいって交換してもらいました(笑)。 その辺りからウェス・モンゴメリーみたいな演奏にのめり込んでいったんです。 あとは、お父さんがハモンドオルガンが好きで、ブルーノートレコード のジミー・スミスのオルガンもよく聴いていました。ブルーノートレコードにはグラント・グリーンというギタリストがいて、そのプレイも すごく好きになりましたね。 当時、ギターといえば、ベンチャーズでした。 そんな中でジャズギターにのめりこんでいた僕は、すこしひねくれていたのかもしれない。 ジャズギターって、変わっているんです。カントリー&ウェスタンやロカビリーみたいなものは、ギターならではという感じがします。だけどジャズギターは、どちらかといえばピアノ的な要素が強い。僕はそんなジャズギターに夢中になっていたけど、高校生くらいになって、ビートルズやジミーヘンドリックスが出てくると、それもかっこいいなと思うようになりました。その辺りからジャズギターじゃない方向のギターも好きになりました。僕はやらないけれども、ベンチャーズのよさも分かるようになりました。 ―プロデビューのきっかけ― ●大学では、はじめからモダンジャズ研究会に入るつもりだったのですか。 そもそも僕は、モダンジャズ研究会というのが面白そうだと思ったから、早稲田大学に入ったんです(笑)。当時は、若い人が音楽をするということはポピュラーではなく、ましてやジャズギターなんてやっている人はほとんどいませんでした。 だから、僕は大学のジャズ研に入って初めて、同じ世代の人と音楽をするという経験をしました。 ●渡辺貞夫さんに見出されたときのことを教えてください。 貞夫さんは、僕が大学1年生のときにアメリカ留学から帰ってきました。初めて会ったのはその年の秋のことです。僕たちは、銀座のジャズギャラリーエイトというジャズクラブの、午後の部を聴きにいっていたんです。 そこで司会をしていた相倉久人さんが、昨日アメリカから帰って来た渡辺貞夫さんがこのあと夜の部に出るからよかったら残りなさいといって くださったんです。そこでの貞夫さんの演奏が本当に素晴らしかった。僕の人生が変わりました。 僕は出会いとか縁というものにすごく恵まれています。貞夫さんはアメリカに渡るときに、資金作りのためにレコードを売っていました。それをね、今新宿で「J」というジャズクラブをやっている先輩の幸田さんが数枚買っていたんです。だから幸田さんは少しだけ貞夫さんと顔見知りでした。 それで、幸田さんが早稲田祭でジャズ研の連中が演奏しているから来てくださいって、貞夫さんにお願いしたんです。そうしたら貞夫さん、来るって言ったんです。とにかくジャズ研の精鋭を集めて貞夫さんを迎えるバンドを編成しようということになりました。僕は一年生だったんだけど参加させてもらって。結局それがきっかけで、僕は貞夫さんのグ ループに入ったんです。 ●グループで3年間活動されてどんなことを学びましたか。 貞夫さんは非常にファッショナブルな人です。 ご存知のとおり、彼はもともとチャーリー・パーカーの影響を受けている人です。しかし、サンバやボサノバなんかもやったし、その頃出始めたビートルズも、自分の音楽に取り入れてしまった。バートバカラックの要素までも、彼は自分の音楽にした。とにかくどんなスタイルのものでもやるのが貞夫さんでした。ぼくは、ウェス・モンゴメリーが好きで、そればかりだったけど、それだけじゃいけないっていうことを学びましたね。 それから僕たちは団塊の世代です。それまでのジャズって、「おじさんが怖い顔してやっている」っていうイメージだった。だけど、僕たちがバンドにいるということで、若い人たちがたくさん聴きに来るようになりました。公開録音にしても90%以上若い人でした。ロックバンドのグルーピーみたいだった。ジャズが「今」の時代のものっていう音楽になりました。貞夫さんにそんな意図があったのかどうかは、わかりませんけどね。 ●渡辺貞夫グループを経て、その後ニューヨークに行くことに決めたきっかけを教えてください。 1970年に、初めて貞夫さんのバンドが海外に、演奏旅行に出たんです。スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル、アメリカのニューポート・ジャズ・フェスティバルが大きな仕事でした。それでニューヨークにしばらくいたんです。そうそう、あの時はつのだ☆ひろがドラムだったんですよ(笑)。 日本でレコードを聴いて憧れていたミュージシャンがニューヨークに行けばそこにいる。そういうミュージシャンも自分と同じ人間だとわかったし、みんながいるその街に自分も飛び込みたかったという気持ちが強かったんだと思います。 そんな中、1970年の暮れに貞夫さんのバンドの解散が決まりました。差し当たってすることもなかった僕は、お金を貯めて、半年だけニューヨークに行ってみようと決めました。それで1971年の6月からニューヨークに行ったわけです。そして半年たってクリスマスがきて、もう少しいてみようかな、なんてやっているうちにいろんなグループに入っちゃったりして、結局そのまま今に至ります(笑)。最初からニューヨークに住もうと思って行ったわけではないのですよ。 ―ソニー・ロリンズとの活動について− ●合わせて6年間一緒に活動されてきたソニー・ロリンズはどんな人ですか。 とても複雑な人ですね。ご存知のとおり、彼は音楽活動を突然やめてしまったりとか、消えてしまったりしたこともある。 ある日ね、旅行しているときにソニーが本を読んでいたんです。何を読んでいるのかと思ったら、物理学の本。インドに行ってインド哲学を学んでいたとも聞いたことがあるし。いろいろ考えている人なんだろうなって僕は思いました。 音楽的には、彼もベースがチャーリー・パーカーだから、貞夫さんと近いところがありました。貞夫さんのバンドもピアノがいなくてギターだったし。 彼らが僕をバンドに使ってくれたのは、ソロがいいとかそういうことではなく、ピアノの代わりにギターでサウンドをまとめることができたからだと思います。サイドメンとして僕はいい役割を果たせていたのだと思いますね。 ●ライブのあとには打ち上げもしたのですか。 日本的なああいう打ち上げはないね。演奏旅行に行ってもソニーはそれほどバンドのメンバーと打ち解けなかった。もちろん一緒にいろいろと話をしたりとか、家に連れてってもらったりはしたけど。 なんといってもソニーは、ものすごく自分の演奏にかけているからね。明日死んでもいいって感じで演奏しているよ。だから、彼は一人だけで、すべての音が聞こえてくる。ドラムもベースも聞こえてくる。僕は彼一人でもコンサートは成立すると思う。彼からはそういう音が聴こえてくるんだ。貞夫さんにしても、「極めている人」っていうのは尋常じゃない。僕は 今までに何人かのそういう素晴らしい人と一緒に演奏でき、接することができて幸せですね、いい経験ができたと思います。 ―プロデュース業について― ● プロデューサーをはじめたきっかけを教えてください。 貞夫さんやソニーのバンドで、僕はずっとサイドメンとしてやってきました。 ソニーのバンドが終わるころ、初めて自分のバンドのリーダーになったんです。そのときに作ったバンドはジャズというより半分ロックで、自分が思っていた音楽を初めて主張しました。人気もあったし周囲からの評判もよかった。4年間くらい活動を続け、キングレコードで6枚アルバムを作りました。そのバンドを解散した後、自分の方向性を考える時期になりました。 ちょうどシンセサイザーやシーケンサーが出始めた時期で、そういうものにも僕は非常に興味があった。 そんな折に、レコーディングスタジオを持つことになったんです。そして同時期に日本の友達がニューヨークでレコーディングを始めたいといってきた。たまたま僕のスタジオにあったピアノがすごく良かったので、僕のスタジオでレコーディングをすることになりました。そのうちにジャズのレーベルを作ろうという話がでて、一連のレコーディングを始めることになりました。 ●ミュージシャンとプロデューサーの違いはありましたか。 ミュージシャンで生活立てるというのはすごく大変なんだよね。二ューヨークだけでやっていても稼げない。だから、バンドを作っていろんなところへ演奏をしにいくか、有名な人のバンドに入るか、自分のやりたくない音楽でも我慢してやるかっていうチョイスしかない。余談になりますが日本で貞夫さんのバンドでやっていた時は考えられないくらい良いお給料をもらっていたんですよ。後で気がついた事ですが。 その頃から始めたレコーディングプロデュースの仕事は僕にとって初めての安定した収入といえたかもしれない。僕は学生からいきなりプロのバンドに入ってしまったし,アメリカに いってからもずっとミュージシャンだったし音楽に没頭して自分の事だけを考えていれば良かった訳で、社会のすごく狭い部分の常識で生きてきた。 プロデュースする立場になって初めて、ミュージシャンを外から見る立場になりました。僕がミュージシャンの親にならなくちゃいけないっていう立場にね。あれはやっちゃいけないとか、社会的な面で見えてきたものも多かったです。正直な話、プロデューサーになって、初めて僕は常識的な社会人になれたと思っています。その点では本当によかったと。 自分自身がミュージシャンだったから、現場ではいいプロデューサーでした。レコーディングセッションはうまくいかないときどうするかが 問題で、全体を見てあげて、音楽的にも、ああ、そこはベースソロがいらないんじゃないかとか細かい事にも立ち入ってあげる事もあるし、そのセッションのリーダーを補佐してあげて、言いづらい事をうまく伝えてあげたり、クリエイティブな事をやっている現場の雰囲気やエネルギーを高めてあげる事がとても大切なんです。 こちらが欲している事をいかに嫌みなく相手に伝えて、引き出す事が出来るかとか、ミュージシャンとの信頼関係がなければ出来ない事ですね。僕がいればセッションは必ずうまくいきました。僕にプロデュース業は合っていたと思います。 最初は片手間で始めたレコーディングプロデュース活動だったんだけど、気がついてみると20年(笑)。その間に自分の音楽活動が少なくなってしまってギターは随分弾けなくなっていた。 でもやっぱり僕は、恥をかいてもいいからもう一度ギター弾きとして活動したいと思いました。だからここ数年、日本のメンバーなんかと少しずつ演奏を始めたんです。そして昨年スタジオもクローズしたし、還暦にもなったし、もう時間もない(笑)いろんなタイミングが重なって、100%ギター弾きに戻ると宣言したんです。 ●ギター弾きとして、増尾さんが今後やっていきたいことを教えてください。 5月にはピアニストのビル・メイズとデュオで来日します。今僕が住んでいるペンシルバニアの田舎の家は彼が紹介してくれて見つけた場所なんです。だから彼とは近所。今彼とデュオアルバムを製作しているんだけど、近所だから時間あるときにフラッとスタジオに来てもらってレコーディングしているような感じです。 今後やりたいプロジェクトはたくさんあるよ。インターネットに自分のレコードレーベル Sunshine Ave. Label (masuomusic.com)をオープンして10年ぶりに新作アルバム Life Is Good も出したし。 とにかく今は、自分の音源をどんどん作っていきたいですね。もともとニューヨークのスタジオも、自分の音楽を作るために始めたんだけど、結局自分の音源製作ができなくなってしまったし(笑)。今は田舎のスタジオで、自分の音楽作りに没頭しています。 お忙しい中、ありがとうございました。