<音楽のきっかけ>
●音楽を始める上で、ご家族の影響は大きかったですか?
すごく大きかったです。絶えず自分のまわりに音楽がある環境で育ちましたから。当時から既に姉もコンサートピアニストをしておりましたので、音楽は非常に自然な形で常に存在していました。自分が音楽をやると決心したときには、不安はあったけれど、違和感は全くなかったです。音楽をやるということは当然自分の人生の選択肢の一つだと思っていました。
●25歳のときにそれまで目指していた大学教授の道をやめ、プロ・ミュージシャンへの道を選ばれた。なにか決定的なきっかけというのはありましたか?
大学教授を目指すという意味でアメリカに渡ったのではなく、自分の専門科目が職を得るとすれば大学教授しかなかったんです。というのも、哲学が専門だったので。音楽をやると決めたのは、アメリカに行って、哲学のドクター課程の2年目のときです。勉強する一方、既にいろんなバンドに誘われて、演奏を始めていました。そして、時間的に両立できなくなったんです。今でも覚えています。当時私はファンクバンドをしていて,いつも2時頃まで演奏するんです、ある日、家に帰ったら2時半で、全然明日の大学の準備が出来ていない。当時私は大学院生でしたから、助手という立場で、学生にも教えなければならないのに、その準備も出来ていない。そこですごく考えたんです。自分は何をやりたいかって。人生の中で大切な決断って、意外と直感でいくしかないケースが多いんです。これがそのひとつでね、3分くらいしか考えなかったです。自分のアパートのソファに座って、考えたら、もう音楽やるって決まっていました。それは、哲学を勉強し続けるということとバランスをとる、とかではなく、ただ僕は音楽をやりたいと思った。そして次の朝、教授に電話をして、僕は今日から学校に行きません、ジャズピアニストになりますって言ったんです(笑)
●大学で哲学を勉強されていたということは、その後の音楽に影響しましたか?
いろんなところであると思います。俗に哲学って言うのは理性の世界、芸術っていうのは感情と直感の世界と言われています。しかし、いわゆる理性の限界のその先に、芸術に任せるしかないと言い切れる領域が出来てくるのです。自分の頭の中でいろんなことを考えて、ある程度までいって、それが行き詰る、そうしたら、その先に生まれるものっていうのは理性で解決できない問題ばかりで。そこはもう芸術の世界、あるいは宗教の世界・・・とにかく理性とは違った世界で成立するものだなと自分は思いました。
音楽をやるにあたって、頭で考えない芸術家っていないと思います。でも、どこまでの頭で考えられた限界であるか、というのを自分なりに設けることができた。そういう意味での訓練として、哲学をやっていたというのはすごく有意義だったなと思います。
<プロになってから>
●プロになってから、アラン・ホールズワース、アル・ディメオラなどたくさんの著名な方のバンドで仕事をされていますが、その時期は、赤城さんのどんな経験になりましたか?
最近、この年になって自分でもいえることはね、80年代の音楽というのはエレクトリックジャズという時代なんです。それまでのジャズミュージシャンたちが、エレクトリックな楽器を使って、ロックやファンクとか、ジャズに無かった要素を取り入れた。つまり、新しい音楽が生まれてきた。それが後にフュージョンになっていくのですが、少なくともその出発点においてはものすごくスリルがあった世界なんです。そして、自分もそのど真ん中にいられた。アランホールズワースにしても、それから、マイルスにしても、エレクトリックジャズっていうものを試行錯誤しながら作っていった。それを歴史的な意味でも見ることができたし、実験性に富んですごく面白い時期でした。そこにいられてすごくラッキーだったと思います。
―マイルスバンドについて―
●赤城さんにとって,マイルスデイビスという存在は、バンドに入る前と,バンドに入ってから,どんな風に変化しましたか。
私は、やはりマイルスの音楽を聴きながら育ったし、自分にとってマイルスのないジャズっていうのはありえませんでした。だからそういう意味では彼のバンドに入る前は、彼は僕にとって歴史的存在だったわけです。だけど、彼のバンドに入り、日常的に彼と接してみると、彼も一人の人間だということが分かったし、一般的に本などに書かれていないマイルスの別の側面をみることが出来た。そこは自分にとって貴重な経験だったと思います。
●具体的にいうとどんな側面ですか、
例えばね、基本的には彼はすごく優しい人なんですよ。本なんかでは、いかにも気難しそうでおっかない人っていう印象ですけどね。
マイルスといると5歳くらいの子供と一緒に居るような気がしてくる。子供のような感性と無邪気さがそのまま薄れることなくずっと来た人間だなと。しかし、彼は金持ち坊ちゃんでしたから、すごく勝手でわがままです、でも、すごく傷つきやすい人だなとも思った。特に人を傷つけたときにはすごく悪いなって反省する人間です。
例えばね、ドイツで演奏したときに、なにかの勘違いで彼はステージの上で僕を怒鳴りつけたんですよ。それに僕は憤慨して、それから3日間口を利かなかった。だけど、4日目に「ハイ、マイルス」と言ったら、彼はにこっと笑って、抱きついてきたんです。「おー、帰ってきた」ってね(笑)本当に優しい無邪気な人なんだな、心の真っ白な人だな、と思いました。
いろんなミュージシャンと演奏してきましたけど、やっぱり天才っていうのは彼だけです。基本的に世の中の感じ方が違うんです。普通の人間の発想法と全く違う音の感じ方、色の感じ方・・・とかね、それをとてつもないような方法で見つけてくる。
彼と音楽の話をしてると、今まで思わなかったようなことと関連付ける。この人の音はこの人から影響を受けているんだけれど、実はこう見るのが一番いいとか、それが、普通の評論家とか、そういう人たちの見方とは全く違う、ミュージシャンとしての彼にしか分からない、彼が頭の中でどう考えているか、それが出てくるんです。
意外と彼は変なこと言うんですよ。例えばね、重力はミュージシャンにとっての敵だ。とかね。
●重力はミュージシャンにとっての敵?
なぜかというと、高い音から低い音に下がっていくのは誰にでも出来る。だけど、低い音から高い音までいくっていうのは難しい。でもね、彼の演奏を聴くと実際にそうなんですよ。彼は上の方から下の方に行く音がない。ところが世の中のジャズの90%のミュージシャンは上から下に下りてくるんです。
●でも解決感がでるのは・・・
そう、解決感がでるのは、上から下に下がることなんです。なぜかというとそれが自然な音の進行なんです。上に上がっていって解決感をつけるって言うのはほとんど不可能なんです。だからね、解決感というアイディア、そのものがなくなるんです。そうするとそれに代わってなにが出てくるかっていうところなんです。音楽的に考えても、そこがやっぱりマイルスにしかできない別な要素を提供している。だからね、演奏することも、もちろんですが、音楽というものを考えるにあたって、根本的に自分の考え方が彼と接して変わったような気がするんです。
●マイルスは理論的な部分っていうのは?
彼はね、理論をすごくよく知っていました。ジュリアード音楽院で勉強していましたから、クラシック理論もよく知っていました。
面白いのがね、マイルスデイビスの『TUTU』っていう曲で、僕がソロをとってたんだけど、普段は使わないような音を使ってたんです。そしたら次の日マイルスに、『おまえ、なんでマイナーコードだっていうのにメジャーサードを使うんだ』って言われたの。そこで僕ちょっと考えてね、ここでマイルスと理論の議論になっても仕方ないやとおもって、『親分、おれ、それあんたから教わったんだけど』って。そしたら、マイルス、じっと僕をみて、『オレもそうするんだ』って(笑)
マイルスの音楽っていうのは、マイルス節みたいなもので、それは彼ひとりでやっているのではなくて、バンド全員がそういう発想の元で曲を作り出す。だからね、マイルスバンドっていうのはひとつの国なんです。独特な文化、独特な言語を使う。僕はそういうものを身につけることが出来て、すっごく幸せだと思っています。
●インタビューで「マイルスはバンドのリーダーとして枠を決めて、ミュージシャンはその中で自分を発見していく」とありますが具体的にはどんな風にされていたんですか?
僕たちはマイルスバンドにしてはめずらしくリハーサルをよくしました。親分は来なかったけどね(笑)僕たちがある程度の曲の枠組みを決める。そうするとその晩親分が入ってくる。マイルスが嫌だったら文句をいいます。そうすると次の日は、また振り出しに戻って、同じ曲を違う方向性でやってみるとか。そういう感じです。
●アレンジや構成なんかはどんな感じだったんですか?
アレンジはわりとがっちり決まっていました。僕が彼のバンドに入っていたとき、彼がヒーローとして考えていた人間はPrinceなんですね。あの時代のアーバン系の音楽のリズムっていうのは彼にとって非常に興味深いところであって、ちょうどラップなんかも軌道にのってきた。それらの要素がどんどん音楽に入ってきた時期でした。厳密に決めたアレンジの中で自由自在にソロが動きまわる。そういう仕組みでしたね。
●バンドに入ったときは、前任者を踏まえて、そこに自分のオリジナリティを出していく、という感じですか?
そうです。最初は前の人がどういうことをやっていたか勉強して、それを身につける。だけどそこにとどまっていたら、親分は怒っちゃうから、少しずつ自分の要素を加え出す。そしてやがて自分が辞めるときになったら次の人に引き継ぐ。そうやっていました。
●マイルスは、いろんな人とやっていますが、そういうのって最初にどれ位やろうかっていう話があって、それでみんな交代して行くという感じだったんですか?
いや、もういつクビになるかわかんないんですよ。どんなにそれまでの演奏が良くても、今夜の演奏が気に入らなかったら、次の朝クビです。だからいつもビクビクしていました。
●では赤城さんがマイルスバンドに入って一番大変だったことはそういう緊張感だったんですか?
うーん、それもあったけど、私にとって一番大変だったのは、黒人文化の象徴といわれるマイルスバンドに始めてアジア人が入ったことでした。それを、好意的に受けてくれた人もいれば、逆に批判的なことを言った人もいるんです。やっぱりブラックカルチャーっていうものに、ブラックじゃない人間が入っていくっていうのは、難しい。今はブラックにもアジア人はたくさんいるけれども、80年代っていう時代、アメリカは、そういう世界ではなかった。特にあの時代、マイルスがやっていた音楽はジャズじゃないんです。あれはファンクなんです。リズムにしても、ファンクというのは本当にブラックカルチャーが中心になっている音楽なんです。その中に初めてアジア人が入ってきた。いったいこれはどう言う事になんだって、マイルスの周りの人たちは考えていたって、実際に僕はそう聞きました。そしてバンドの人たちもやっぱり。僕をどのように評価していいか分からなかった。最初の1年間は迷ったと思いますよ。
だから,僕自身がアジア人を代表するみたいな立場になってしまった。僕がいい演奏をしなかったら、僕個人の失敗には終わらない、ということが一番のプレッシャーになりました。
と、同時にアメリカは当時、ジャパンブームの最中で、車にしてもエレクトロニクスにしても全部日本のもので。その中で僕自身が、日本の自動車とか、エレクトロニクスと並べられると思うのがすごく嫌でした。やっぱり僕自身はアーティストで、それは、個人だと思いましたから。それが、あえて言えばアジアの代表みたいなことになり、単にそれだけで終わってしまわないように、自分はアーティストとしてどう演奏するべきなのか、すごく悩みました。
マイルスのバンドの人たちとはその後、すごく仲良くなりました。そしてマイルスバンドの中にアジア人が入っているっていうこともやがて問題じゃなくなりました。だけど、音楽的な意味より、むしろそういう意味で、自分がやっていることに対して,個人的な領域を超えて、周りから見られている「意味」みたいなものをどうプロセスしたらいいかということ、それが一番僕にとっては大変でした。
●マイルスバンドにいたことは、今の赤城さんにどんな風に役立っていますか?
今になって、やっとマイルスを気にしないで音楽をできるようになりました。マイルスのバンドを退団したときに、私がマイルスのバンドで学んだことをそのままやり続けたら、絶対親分は怒るだろうと思った。だから、がらっと自分の方向を変えたんです。マイルスの次に入ったスタンリー・タレンタインのバンドには、9年間いました。これは音楽の世界がマイルスと全く違うんです。ブルースの原点に戻ったようなバンドですから。僕は、マイルスのバンドとは全然違うものを身につけた。その中で、僕はとてもHAPPYだったし、自分の音楽の中では絶対、「マイルスのバンドにいたんだな」と思わせるようなことはしたくないと思ってた。でも結局そう思うこと自体、まだマイルスの影響から抜け切れていないってことなんです。これはもう、一種の親に対する反発ですね。でも、そういうところでいろんな音楽を作り、CDも何枚か出させていただいた。その中で、やっと最近マイルスが気に入ろうと気に入るまいと、これが自分の音楽だと素直にいえるようになりました。やっぱりそれだけ彼の影響力は大きかったですね。
ここでもし、マイルスにばったり出会ったとすれば、マイルスのリスペクトを受けるような音楽をやっていきたいと思います。そこでマイルスが「お前の音楽よくない」といったとしても、そのやっていることに対する姿勢そのものにはリスペクトをもらいたい。そういうことをね、彼は出来る人なんですよ。例えば、セロニアスモンクのピアノを、彼は大嫌いだけど、彼はセロニアスモンクはすばらしいミュージシャンだという。そういう大きさを持っている人間なんですよ。だから親分がもし今いたら、そういう風に接してもらいたい、そういう音楽をやっていきたい。そう僕は思っています。
<これから、そしてツアーについて>
●音楽教授としても、活躍されている赤城さんですが、今の若いミュージシャンに期待すること、伝えたいことはありましたら教えていただきたいのですが。
本当のいいミュージシャンというのは、いつもその時代に即した音楽を作ると思っています。だから、今の若いミュージシャンたちも、どんどん自分たちの音楽を作っていくでしょうし、それが今の時代を象徴するでしょう。そして今の時代の価値観を作っていくと僕は信じているんです。今の音楽、それを僕は全て好きとは言いません。ただし、あれは今の世代にしかできない。音楽の歴史とはそういうものだと思います。だから、僕が音楽を教える上で伝えようとしていることというのは、僕たちが自分たちの歴史の中で、その歴史の必要性に迫られてどういう音楽を作ったか、そして、それを作りあげたときにどういうことを考えていたか、ということを、彼らの今の世代の参考になるような形で残していきたいと思うんです。もちろん僕は、自分たちの世代の作った音楽に対して、プライドを持っています。ただし、それはあくまでも僕たちの世代の音楽だと思うんです。その中で、今の人たちにも使えるような方法論や価値観があれば、どうぞ使ってくださいと思います。でも、それをしたくないのであれば、それでもいいと思います。ただし、あなたたちの先輩は、昔はこういうことをやったんですよ、みたいな感じで僕たちがやっていたことを伝えていきたい。
ここ一年間、私は大学でジャズ作曲という授業をしているんですね。そこで,歴史的なことを教えようと思って、カリキュラムを組んだんですが、途中から学生たちがつまらなそうにしているのが分かるんです。だから、途中で変えて、「じゃあお前ら自分の好きなものを作ってこい」っていったら、もうサンプリングは出てくる、DJは出てくる。ラップは出てくる(笑)でもそれがチャーリーパーカー、ジョンコルトレーンなんかと絡めて出てくる。そして彼らはそれで発表会をやったんですが、「あぁ、これでいいんだ」と思いました。要するに僕たちのやった音楽、先輩たちのやった音楽っていうのはあくまでも一つの選択肢としてある。それを勝手に使ってください。そして自分たちの音楽を作ってくださいと思います。
●歴史を教えられているというのは、そういった意味で教えられているんですね。
そうです。基本的にはアフリカ音楽から、奴隷の音楽、それが、ジャズにどうやって発展していったかということを教えます。ひとつのものが確立されたらそれに対してすぐに反動が出てくる。ということをすごく強調します。その反動っていうのは、たとえばアメリカだったらアメリカの歴史を反映するような反動だということを強調します。
僕自身は絶対音楽という考え方は否定するんです。それは学者の、評論家たちの勝手につくったものだと思ってる。音楽って言うのはあくまでも歴史の一部、歴史の反映だと思うんです。
●歴史の授業がすごく難しいと学生の方が受け取られるというのは?
それは音楽を勉強したことがないからです。英語でいうとHEARはするけど、LISTENはしたことがない。聞き流すんだけど、音楽を聴くというくせがない。だから、今聞いている音楽の特徴はなんだろうとか、どこから来た曲なんだろうとか、どんな人たちがどんな場面で演奏する音楽なんだろうとか、そういうことを考えない。その違いですね。例えば、この音楽は、1963年アメリカで始まった黒人開放運動のエネルギーを投射した曲だと分かれば、その曲の意味も少しずつ分かってくる。そういう人たちにとって、大切なのは音楽を聞き流すというのではなく、聴くということだなと思います。
●今後の赤城さんの音楽活動について、もしくは、夢がありましたら教えてください。
それよく聞かれるんですけど、僕いつもどう答えていいのか分からないんです。というのも、ミュージシャンとして明日音楽やろうと思ったら、今の僕はなにをやるか全然わからないんです。それがでもすごく楽しい。でもしいて言えばね、例えば、少し前に出した「Liquid Blue」というのがあるのですが、80年代に身につけたエレクトリックジャズの要素とか、そういったものをしばらく無視して、やっていなかったから、また少しそれで遊んでもいいなと思っています。
それに「これはもうジャズじゃない」といわれても僕はいいんです。ジャズって言うのはただのひとつの言葉だし。とにかく、いい音楽を作って、そしてその音楽がリスナーにとって、毎日聞くにあたって、いい生活の伴奏になってくれればと思います。
お忙しいところ、ありがとうございました。
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