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2015年6月25日
村上秀一の包容力
教え:おまえは思ったように弾け。俺が音楽にする。
2001年1月にNYに出向いてソロアルバムを作った。村田陽一プロデュース。パーカッション、ミノ・シネル。ベース、マークイーガン。ホーンズ多数。
その中の何かの曲で僕が極端にハシっている。それを聞いた村上“PONTA”秀一が「ミノが佐山に寄り添ってプレイしていないだけで、佐山らしいよいソロだ」と誉めたのだ。
それまで10年以上一緒に演奏していて「なんだか誰よりもやり易いなぁ、相性が良いんだろうなぁ」などと漠然と考えていたもんだが、この時、走馬灯。過去の色んな場面が思い起こされ、彼の掌の上でいい気になって演奏していたのだったわい、と頓悟した。勿論「いい気になって演奏する」のは理想的に素晴らしいことである。
冒頭の「教え」は、だから彼の言葉ではなく、言動及び行いから導きだした僕の解釈である。これって何かに似ていないか?
以下、脱線。
釈迦・孔子・イエス。思想家は自ら著作しない。語り・行うことが表現になる。それから行くとポンタは思想家であるのだ。説明はしない。教則ビデオのハチャメチャぶりでわかるように説明もしない。できないのではなく、言葉にするには持っている情報量が多すぎるのだ。
お釈迦様達の話に戻ると、取り囲む弟子達が師匠の考えはこうだった、ああだった、と記録を残し、個人個人のちょっとしたズレが様々な分派を生んでゆくという図式。
著作あるいはそれに類する記録を残すのは哲学者。ニーチェとかストロースとか。
それからゆくと、幕末では行動しまくった竜馬が思想家で、座学の王者・松蔭が哲学者ということになって、これはちと当てはまらない。弘法も日蓮も随分著作しているし、日本には当てはまらないのかもしれない。
そして世間話。
件のテイク。録音中からわかっちゃいたのだがどうにも止まらなかったのだ。村田がOKを出したので多少の抗議をした。彼とエンジニアが言うには、プロトゥールスの録音なので東京に戻ってトラックダウンをする時に修正はできる、セッションとしてとても良いテイクだからこれを残す、とのこと。それでは、と他日を期して次の曲に進んだのだったが。音符の微妙なズレを自然な形で思ったようなグルーブタイミングに一つ一つ合わせてゆく、なんてことは当然不可能で「騙されたぁ!」。
話は元に戻って結論めく。
自らの手柄を言い立てることなく、サポートを受けた本人も気づかないまま、その人を限りなく盛り立てている。極めて日本人好みの美意識である。悪くすれば権力者の思うつぼにもなるのだが、ポンタ流のこのメンタリティを僕は踏襲したいと思った。光らせることで自分も輝く。そのためにはリズム面も(最低限形式の整う程度には)しっかりしなければ、と意を新たにしたのだった。すでに47歳であったけれど、まだまだ世界は美しく、人生にはきりがなかった。
投稿日:2015年6月25日
投稿者:@ジャズで更新担当者
グレイト!(2)
2015年6月19日
神谷重徳の機材
教え:意識はデジタルを通り越す
まずは世間話。
神谷重徳さんはコンピューターミュージックの草分け的存在。切り取りようによっては冨田勲氏と並び称されても良いくらいのひとである。坂田明のWAHAHAに参加し、古澤さんとも親交の会ったことから、打ち込み・編曲その他諸々の作業を手伝わせてもらうことが多くなった。当時のスタジオ業務のように作曲・編曲・演奏・プロデュースなどとはっきり別れて作業する質のものではなく、全ての要素・ポジション、ソフトとハードが流動的に往き来する作業。これは勉強になった。ハードのことをかなり理解しつつソフト側から注文を出す、とか、実演と打ち込みを交互に繰り返すうちにアレンジ自体が収斂してゆく、とか。
意識はデジタルを通り越す、というのは神谷さん直々の教えではない。山貫(ヤマヌキ)君と言う優秀なスタッフが居て、打ち込みやアレンジのサジェスチョンその他、前述したように色んな業務・立場を行ったり来たりしつつ僕と2人で神谷さんの発注をこなしてゆく。
ファーストバイオリンに輝きを与えるフルートのユニゾンはどの程度の音量が良いか。クラリネットとファゴットで弦楽の厚みのみを加えて楽器の存在は目立たなくするにはどのような音域が良いか。などなど、オーケストレイションの基本を、バーチャルとはいえ実地で種々実験・体感したことは現在にも繋がっているだろう。その頃はやがてオーケストラと共演したり書き下ろしたりするようなことは夢にも望みにも考えてなかったが、なにかと経験は繋がっていくものである。実績に早期に結びつかない教育や学びには予想もしない果実があるものなのだ。
さて本題。
ある時リズミックな刻みを録音することになった。僕はハシリ癖があるのでステップ入力(1拍を128分割して音符に応じて数値で入力する)したところ、どうもグルーブ感が出ない。そこで上手くいくまでやり直せば良いから、ということで手弾きすると揺れる・・・位はまだ良いがやはりどうもしっくりこない。自分の弾いた音符を数値でみると、16分音符は8、8分音符は16、その三連譜は12であるべきところがそれぞれ2から3ほど短い。帳尻を合わせるためにどこかで不自然に長い音符が合理的でなく入っている。
これはショックだった。前回の川端さんの話に出て来たような出来事があり、良治朗バンドも継続していたから、絶好のチャンスだと思って修正に励む。だが、少し遅くしようとするだけで16であるべき数値が20までに伸びる。素直に演奏しているときの平均が14だったよりもズレとしては大きくなる。つまり・・・
自分のリズム感から出る音符を意識的に修正しようとすると、思ったように演奏するよりもズレが激しくなる。ということ。
山貫君によると、人間の脳は電流反応で伝達するが、電気機器はデジタル反応で伝達。そこには格段の情報伝達速度の差が横たわっている。
煎じ詰めて言うと、コツや小手先のテクニックでは良いリズムは出せないのである。リズム感に劣等感を持つ身としては絶望せざるを得ないではないか!
でもそのことで、ある種の諦めがつき、セッションにおいてリズムの出し方をひたすら丁寧に丁寧に重ねるしかないと思い直した。その頃は毎日何らかの演奏があったので、テーマを持って日々過ごすこと、それ自体は楽しいことだった。
今は少しましかなぁ。
投稿日:2015年6月19日
投稿者:@ジャズで更新担当者
グレイト!(0)
2015年6月11日
川端民夫の深淵
川端民夫の深淵
教え:一つの音からは3回リズムが出ている
リー・オスカーを交えた全国ツアーの佳境。釧路だったと思う。皆での食事&飲み会の後、ジャズバーに飲みに出たのがたまたま川端さんと僕の二人だけだった。それまで挨拶くらいしかせず(寡黙な人なのだ)なんとなく怖い気もしていたのだが良い機会だと思っていた。レコードを聴きながら会話のきっかけもなく一時間ほども過ぎる。無言で過ごすというのは中々ないこと。その状況自体を味わおうとしていた。やがておっとりと「リズムの取り方なんだけどさぁ・・・」とぽつりと話し出す。
「裏拍の一拍を打つにも音の出る場所・のびてる長さと質・切るタイミング、と3回リズムを出しているのだよ。意識しているかい?」
「いや、考えたこともなかったです。けど、あのスピードの中でそんなことまで意識は出来ないでしょう」
「いや、そこをきっちりしないとビートは出ないし、全体のグルーブも安定しないんだよ。君のプレイにはその緻密さと言うか、意識そのものが欠けているので不安定なんだ」
「そうですか、でも・・・一拍に三回のリズムの点を意識する、というのは机上の理想論な気がします。」
「では明日は弾くのをサボッて良いから僕の音符をじっくり聴いていなさい」
翌日は函館の道新ホールだったと思う。シンセサイザーの前に立っていつまで経っても弾かない僕に古澤さん始めメンバー全員、意に介することもなく音楽が進んでいく。こういうところが良いですね。弾かない人には弾かない人の判断があるのだろうという尊重が当然のこととして行き渡っている。それだけに個人の自立と責任感がいっそう問われるのだ。
そして川端さんの一音符一音符を聴いていると脂汗が出て来た。
一つの音符を弾き始めるときの緊張感と決断。のばしている時の集中力。音切りのタイミングを絶妙に探り当てる周囲への気遣い。
踵を付けて直立する演奏姿勢。うつむいた額から汗が一筋二筋ツツーと落ちる。格好良い・・・けど近寄りがたく巨大に見える。
一小節に三つも四つも出す音符の一つ一つに三つのタイミング。そのすべてに集中すること。出来るのだ、と思うと音楽をすることが恐ろしくなった。
それ以後のツアーは辛かった。まぁ「楽し辛い面白い」なんだけど。気楽に楽しいだけの音楽時間が、人を見、我が身を振り返り「友が皆 我より偉く 見ゆる」のである。意識して見回してみれば僕以外の全員が「リズムの点」について実に細やかに気遣い、対応しながらアンサンブルを進めていく。僕はと言えば、ステージに立ちながら観客的な感動をしつつ手も足も出なくて、それでもソロが回ってくると思い切り弾き倒す。妙な時間の経過が日に2時間。後はやけになって飲んだくれる。
ミュージシャン、それもジャズミュージシャンなんて食えるわけがないのだから、やがて家業をつぐまで楽しむだけ楽しもう、くらいに考えていたのが、「こりゃ一生かけての探し物だな」と思ってしまった。
ツアーの終わり頃、親父に電話した。「約束を違えるけれど、一生音楽をしないと済まなくなってしまった。家は継ぎません」と告げた。分かったとも好きにしろとも言わず「やっぱり東京の大学にやるんじゃなかった」。実感だったろう。
世間話:
武田和命バンドは僕にとってとても重要な音楽・ジャズキャリア(経験)だが人生哲学的にも面白かった。A型人間の変遷を目の当たりにするのだ。
広木光一の“律儀さ”が、やがて小山彰太の“我が道を行く”になり、最終的に武田和命の“世捨て人”になってゆく。これはある時の彰太さんの述懐なのだが、武田→逝去、彰太→札幌でマイペース(世捨てまでは行ってない、念のため)、広木→いい感じの完全マイペース、という現況を見るにつけ、実に穿った見解であったといえるだろう。
その武田さんと初めて会話をしたのはバンドを始めてから1年近くも経ってから。挨拶だけで楽屋にずっといる。一緒に飲んではいるが、話しかけても「おう」とか「ふふん」と返されるだけで話が次にいかない。残りのメンバーでがやがやしていて楽しいのだが武田さんは一言も喋らず、それでも一番最後まで飲んでいる。
「“共に時間を過ごす”こと自体がコミュニケーションの基本であり、おしゃべりはその付随である」ということが今は分かっているのだが、若いとき、それも関西人にとってはとても難しいものである。武田さんや川端さんとの交流(無言交流)を通じて人生の大事な部分を学ばせてもらえた。
おまけのエピソード:
ボガンボスKyon(Key)の京都時代。あるバンドに誘われた。大尊敬する先輩に「話でもするか」と呼びだされ、四条河原町辺りの交差点で待ち合わせた。そのままガードレールに座って車や人々を眺めているのだが、バンドの打ち合わせはおろか、世間話も出ずに無言の1時間強。「今日はそろそろ帰るか」と言ってその日は別れた。その後バンド活動は始まり、続いてゆくのだがあの時のコミュニケイションが実に大きかった、と回想していた。さすが京都大学、という風には思わないが、わかるヤツはハナからわかってるんだなぁ、と思える良い話だ。
投稿日:2015年6月11日
投稿者:@ジャズで更新担当者
グレイト!(0)